CROSS TALK

対談

SPECIAL CROSS TALK 1 /
対談 近藤会長×皆木 英也氏

クリーンな会社へ
暴力追放宣言の意義とは

岡山県下において「暴力追放宣言」を行った唯一の解体業者、コンケン。クリーンな会社を目指し、長きに渡り不遇の状況に置かれるも、常に将来を見つめて前進を続けてきました。宣言当時から近藤会長をサポートしてこられた元岡山県暴力追放運動推進センター専務理事の皆木氏と共に10年のあゆみを振り返ります。

近藤会長

企業存続のため
暴力団との縁切り宣言へ

あれは皆木さんが岡山東署(現在は、岡山中央署。)の署長を辞められて、暴力追放センターの3代目の専務理事になって1年足らずの時じゃったんですよね。2007(平成19)年の2月15日に暴力追放センターへ行ったら、「解体屋がそんなことをしたらバケツの水をひっくり返したようなことになるで」と言われたことを鮮明に覚えてますよ。

暴力団と縁を切る、縁切り宣言をするというから、相当の暴力団の抵抗があるということで、一人では、一企業では無理よと。

でもこのままだと、うちらは企業舎弟になっていなくても、それに近いものになるのがわかっていた。だから私の代でコンケンはやめようと思っていた。宣言する決心をしたのは、捕まったらすぐに産廃の許可が取り消しになる。それは絶対にダメだから、踏ん切りをつけるつもりだった。

1992(平成4)年4月に暴力団対策法ができ、岡山県警で暴力団かどうかを指定する時に暴力団の意見を聞く聴聞官だったんですよ、私は。それ以来、暴力排除のためにどうすればいいか、警察活動をやりながら勉強していたけど、なかなか暴力団を壊滅できない。それは資金提供する者がいるから。その資金を断たなければいけないんじゃないかと警察の内部的にもどうやったら断つことができるかと考えていた。

宣言はすげえ止められた。後からわかったけど、県警本部の暴力団対策課(現在は、組織犯罪対策第二課。)の方は「近藤建材がヤクザと切れるわけねえじゃろう」と言っていたみたい。われわれはブラックリストに入っているのはわかっとった。だけど、自分は一代で始めて、どこらへんまで大きくできるかいうのがあった。

だから、暴力追放センターに来られた時、条件じゃないけど、「こんなことができますか」といくつか聞いた。一番必要なのが、「コンプライアンス」。本当に法令を遵守した企業じゃないと因縁をつけられて、縁が切れませんよと。それを守ることで、本当に真面目にどんどん企業の隅から隅まで見て、法的に触れない企業になっていくんです。

皆木 英也氏

コンケンが一丸となり
暴力に対抗して10年

その時に、もう一つ条件を出したのが「組織的対応」ね。社長の意思をきちっと守ってくださいよと。従業員の末端に至るまで、暴力排除をコンケンはやるんだと、強い決意で団結してくださいと言いました。

だからボイスレコーダーを14個買って、本社と藤田に一個ずつと、12個は現場に持たせた。暴力団が来たら現場を止めて、5人おったら5人全員で対応しようと。「間違えたことを伝えたらいけないので、ボイスレコーダーでとらせてください」と言うたこと、皆、録音したことを今でも覚えている。

打って出るときにはプレッシャーがあるから、精神的なサポートもさせてもらった。暴力追放センターから人・物・金は出せないから、私の経験や県警の動きなどの情報を提供しながら、頻繁に会って伝えていた。

僕のところの電話もいまだに5台は県警の暴力団対策課の方にすぐにつながって対応してくれる。要件を聞かなくても「はい、了解」言うたらパトカーがすぐに来てくれる。

それほど大変なことだったんです。宣誓では、まず「暴力追放宣言」を南署に出して、こんなことをしましたと取引先にも連絡してくださいと……。そしたらやくざに一夜にして伝わり、暴力団の攻撃を受けると。確か南署に守ってもらうという形で出発した。

宣誓して1年目は経営的にもすごく大変だった。18億円ほどあった売り上げが、2年で11億円になった。その時に県警本部の暴力団対策課から「近藤建材は大丈夫なんか」言われて「もう後戻りできんわ」と答えたら「つぶれりゃへまあな」と言われた。暴排しても何もしてくれず何のメリットもない。

暴力団対策法(以下、「暴対法」という)の改正を確か5回ぐらいやっています。抗争事件をやったらどういう対応をするとか、1992(平成4)年の暴対法ができた時、暴対法9条は12項目ぐらいしかなかったのが、今は20何項目になっている。どんと増えているから暴力団は何かをしようと思っても、だいたい暴対法にかかる。

われわれの解体業界は、うちが暴排をして11年になるけど、11年前も今も一緒です。うちがとことんやられて仕事が取れない。どこの会社もそんなことになりたくない。おそらく2社目は解体業者からは出てこないと思う。

それで今まで頑張ってきて、今現在はどうですか。

今はうちの現場へやくざ屋さんは来ない。電気屋さんがカメラを取り付けに来てくれる。街中のややこしい所を受ける時には、県警がカメラを取り付けて監視してくれる。

警察は、昔は何もしなかったけれど、今はしているということ。コンケンの後へ続けということ。

近藤会長×皆木 英也氏

「暴力追放宣言」が認知され
イメージを一新

山陽新聞2017(平成29)年7月2日の朝刊にコンケンが「暴力追放宣言」をして10年たった記事が出て、いろいろな人に初めて認知された。これがあったから今、いろいろな人が「協力します」とか、「子どものことを一生懸命に学習する場にするならわれわれも」とか、環境省の方とか、われわれの業界とは違う人ばかり、いろいろな人が寄ってくれる。すごい褒美になっている。

それは10年の実績。この信用ですよ。ここの金庫にいくら入っているか分からないけど、それ以上の信用を得られる価値がありますよ。

山陽新聞掲載記事

われわれが前を向いて進んで行けるのは、「暴力追放宣言」をしたという実績があるから。大学の先生が「暗黒産業から脱出して」という言い方をしてくれたのも、市職員が大学生に藤クリーンのリサイクルセンターのことを「ワンダーランド」と言ってくれたのもうれしかった。

出発点の「法令遵守してください」が、「社会的貢献にまで行き出した」ということですね。

びっくりしたのは、病院で採血している時、看護師さんに「近藤さん頑張ってくださいね。山陽新聞を見ました」と声をかけられたこと。30年以上、行きつけている病院だったけど、多くの人に知ってもらえたと思った。

岡山県は2010(平成22)年の10月くらいに暴力団排除条例をこしらえた。世の中が変わってきて、今は非常にやりやすくなった。会長が言うように、まだ二番手がいないけど。会長がやった行為の一番は、暴力団排除条例ができる前に自分がパイオニアとして、手を挙げて暴力追放宣言をした勇気。これはすごいなと。倒産することもなく、社会貢献までやる。私も最初の段階では不安を持ちながらでしたが、ここまできたことをうれしく思います。

ありがとうございます。